スポンサーリンク
「仏の顔も三度」ということわざがあります。
「えっ!【仏の顔も三度まで】じゃないの?」と思ったあなた!
するどいですね。
今回は、そんなあなたの疑問にお答えします。
仏の顔も三度の意味はもちろん、なぜ三度なのかの由来。
そして、同じ意味をもつことわざの紹介。
さらに、このことわざを使った例文も紹介します。
そのうえ、なぜこのことわざに「まで」がついたりつかなかったりするのかを説明します。
この記事を読めば、あなたの自慢できる言葉の雑学が、ひとつ増えますよ。
スポンサーリンク
目次
仏の顔も三度の意味
まず、このことわざの意味を紹介する前に、「まで」という言葉がなぜ付いてしまったのかを考えてみましょう。
このことわざは、もともと「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」を略した言葉なんです。
つまり、「仏の顔も三度」であって「仏の顔も三度まで」ではないんです。
このことわざの元となった言葉、「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」は三度も顔をなでたら怒りますよ、ということですから
二度までではなく、三度めは怒りますよということです。
「まで」を付けると、三度めは怒るではなく、三度までは怒らないになって、本来の意味と違ってきます。
ではなぜ、「まで」という言葉がついてしまったのでしょうか。
私が考えるに二つの原因が考えられます。
ひとつ目は、「仏の顔も三度」と言う言葉を、意味を知らずに解釈すると、三度は許してくれると考えても不思議ではありません。
2つ目は、「まで」という言葉は、文末につけると、意味を強める言葉になります。
ですから、このことわざを相手との会話に使ったり、伝えたりするときに「まで」を加えた方が文章として強調されます。
なので、自分の意思を相手に強く伝えるために、自然な流れとして「まで」が付いてしまったのではないでしょうか。
この2つのことから、「まで」がつくようになったのではないでしょうか。
それではたいへんお待たせしました!
このことわざの意味を紹介しますね。
悟った仏様でも、「三度も顔を撫(な)でれば、怒りますよ。」ということから
普段は、優しく穏やかな人でも、何度も理不尽なことをしていると怒りだす、という意味なんです。
相手が優しいからと、調子に乗っていると、手痛いしっぺ返しを受けてしまいますよ。
でも、なんで三度という回数があるんでしょうか。
べつに、四度でも五度でも問題なさそうなんですが。
それでは、つぎに、なぜ三度なのかの由来を紹介しましょう。
スポンサーリンク
なぜ三度なのか?その由来
なぜ三度なのか?
その由来は、仏様の悲しい人生が関係しているんです。
くわしく紹介すると、分厚い本になってしまいますから、大切なところだけ簡単に紹介しますね。
隣国にコーサラ国という大国があり、コーサラ国の王様は、釈迦(シャーキャ)国に自分の王妃となる身分の高い女性を要求しました。
しかし、釈迦国は、力に物を言わせるコーサラ国の王にたいし不快感を持ち、身分の低い女性に身分を偽らせて、コーサラ国の王に嫁がせてしまったんです。
コーサラ国の王と釈迦国の本当は身分の低い女性との間に生まれた王子は、釈迦国に留学をしました。
当時のインドではカースト制度という身分制度が非常に厳しいところでした。
身分の低い女性から生まれたコーサラ国の王子のことを釈迦国の人たちは、差別的な行動をとってしまいました。
そのことから、釈迦国が身分を偽った女性を自分の母にしたと知り、コーサラ国の王子は釈迦国を滅ぼすことを誓うのです。
やがて、コーサラ国の王子が王となり釈迦国を滅ぼすべく、出兵していくのです。
釈迦国の王子であった、お釈迦様は、説法をもってコーサラ国の王を引き返させます。
しかし、コーサラ国の王は王子のときに釈迦国の人たちから受けた差別的な行動を許すことはできませんでした。
二度、三度と出兵しましたが、そのたびにお釈迦様によって、出兵を断念しました。
しかし、四度目の出兵には、お釈迦様も「因果応報」であると、出兵を止めることを止めてしまい、釈迦国は滅びてしまったという事です。
この由来によれば、三度めまではお釈迦様は、コーサラ国の出兵を止めています。
ということは「仏の顔も三度まで」が正しいでしょうか。
「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」は上記で紹介した、お釈迦様の悲しいエピソードから転じたものです。
ですから、ことわざとしては「まで」はつけずに「仏の顔も三度」が正しいのです。
仏の顔も三度と同じ意味のことわざ
さて、それでは、仏の顔も三度と同じ意味のことわざってあるんでしょうか。
私の今までの経験と知識をしぼりだして考えてみました。
そして、ひらめきましたよ。
- 「地蔵の顔も三度」
- 「兎(うさぎ)も七日なぶれば噛(か)み付く」
- 「堪忍袋の緒が切れる」
- 「堪忍庫の戸が開く」
どのことわざも、何度も何度も、侮辱(ぶじょく)したり、いいかげんな行為をくりかえしていると、怒りだすという意味で使います。
このなかで、一番同じ意味に近いことわざは、「兎も七日なぶれば噛み付く」ではないでしょうか。
おとなしい兎(うさぎ)が噛(か)みつくんですから、よっぽど怒ってますよね。
例文
それでは、このことわざを使った例文を紹介します。
- 仏の顔も三度だからね、次にウソをついたら許さないよ。
- いくら子供でも、いたずらは、仏の顔も三度だよ。
- いつも優しい先生が、何回も宿題をわすれたら仏の顔も三度だよって、怒りだした。
- 仏の顔も三度。いくら彼がやさしいからって、あまえすぎじゃないですか。
なんだか、例文を紹介していたら、自分まで、いつもの行動を反省しようと思ってしまいました。
あなたは、どうですか。
まとめ
「仏の顔も三度」は「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」を略した言葉ですから「仏の顔も三度まで」は正しくは間違いです。
ただ、普段は、優しく穏やかな人でも、何度も理不尽なことをしていると怒りだすという意味。
それから考えると、それほど目くじらを立てるほどではないと私は考えます。
人はどうしても弱い心を持ってますから、優しい人には甘えてしまいがちです。
このことわざを、座右の銘にして、自分の行動に責任を持って行動しなくてはいけませんね。
仏様が怒りだすようなことをしては、いけません。
仏様に見放されてしまいます。
私も肝に命じておきます。
スポンサーリンク